はじめて特別支援学級担任になる方へ③

はじめて「障害児学級障害児」を担任した時に、学級には、色々な障害種によってクラスが分かれていることを知りました。

しかし、同じクラスでももちろん同じ児童はいません。人は、一人として同じ人はいないのです。改めてそのことを再認識しました。人にレッテルをはらないということが支援学級はじめの1年目で学んだことです。

毎日、必死でした。20年ぐらい通常の学級を担任していたのですから、勝手がまったく違います。

1年間、ほとんどが手探りでした。

はじめて特別支援学級担任になる方へ②

私が、特別支援学級担任になったのは、平成13年のことでした。その当時は、障害児教育と呼ばれ、発達障害もあまり広くは知られておらず、またコーディネーターという仕事も発動されていませんでした。障害がある児童の交流学級の担任であったことはありますが、障害児学級の担任になったのははじめてです。一人で学年も特性も異なった複数の児童を教えるのは、思った以上に大変です。その頃、実態把握もアセスメントも何も知らない教師でした。今考えるとその時の教え子に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

はじめて特別支援学級担任になる方へ

ネットで調べてみると、わりと全国の自治体で、「はじめて特別支援学級担任なる先生への心得」のようなサイトを見つけました。

教員に採用されたはじめの年に特別支援学級の担任になる方は私の市ではありません。何年か通常の学級の担任をして、特別支援学級を担任することができます。

最近では、特別支援学校の免許をとる方もいらっしゃって、はじめから特別支援学級の担任を希望されている先生も珍しくありません。

私は、20年ほど通常の学級担任をして、特別支援学級の担任になりました。はじめの年は、本当に戸惑う事ばかりでした。

特別支援学校とは、違う。また通常のクラス担任とも違う。バランスが大事な仕事です。

ある意味では、とても楽しい仕事です。

これから特別支援学級の担任なろうと思っている方へ少しでもお役に立てれば嬉しいです。

孤軍奮闘

通常の学校の中では,特別支援学級は孤軍奮闘です。率直なお願いやら特別支援学級の事を考えた意見を言ったときは,むなしく空き缶を転がした音がします。

 

自分のことばかり考えている,人数が少ないからそんなことができる,などと思われることもあるでしょう。私の偏見かもしれません。それほど深く考えられていないのかもしれません。

私の担任している子どもたちや保護者は,自分の本当の気持ちをすべて出すことはできません。代わりに私が発言しなければ誰が言うのでしょう。そんな思いをもちながら仕事をするのは、厳しいです。だからこそ、特別支援に携わる者は覚悟の上でなって欲しいのです。仕方ないから担任になったというのには、厳しいです。

つい熱くなってしまいましたが,自分のできる範囲で精一杯行うことが大事だと思っています。微力でありますが・・・。

ルーム

久しぶりに発熱して

仕事を早退しました。

一日中寝たので少し復活した映画が

「ルーム」です。

5年間監禁された親子の物語ですが、

ただ暗いだけの映画かと思いましたが

予想以上に心に残りました。

暗く残ったわけでもなく

かといって明るい未来が開けているわけでもなく

自分の人生を考え直すことができた名作でした。

ただ、ただ男の子がいじらしい。

苦手なこと

経済界のことが苦手です。株が上がり下がり,円高円安,だからどうなるのか,まったく理解できません。自分の頭がよくないことが露呈されます。だから今まで逃げてばかり来ました。しかし,自分の苦手なことに挑戦することは必要なことです。

 

「マネーショート 華麗なる大逆転」は,リーマンショックを扱った実話なのですが,何度も巻き戻して(DVDなのに)観ていますがチンプンカンプンです。

そういう分野は,深くわからなくてもざっと理解できればいいのでしょう。少しずつトライしていきたいと思います。

ストーリーを取り入れる

学校は様々なことを教えるところです。しかも予測不可能な人間を相手にしています。だから面白くもあるし,難しくもあります。

研究授業など見せる授業は,流れを色々考えて時には効率よく,また時にはじっくりと考えさせて進めますが,実際毎回そんなことをしていたら,しなければいけない内容を教えていくのにとても時間が足りません。理不尽だけどしないといけないからする!ということで,日々授業をしていることが多いのが現実です。しかし理想を言えば,どんな教科でも学習をすることの意義を伝えてから行っていくべきだと思っています。その教え方は色々ですが,ただ押し付けるのではなく,授業や指導内容はいつもストーリーがあるべきだと思うのです。もしくは理由付けとも言いまかね。それがあれば,子どもたちの多くは納得し,また習得率も高くなるのではないでしょうか。

ただし,そのストーリーは短く的を射て!実はこれが意外と難関です。

爪痕

人間というものは哀しい生き物です。長年勤めていた職場にあと数年で別れを告げようとするとき,何かしら自分がそこにいた証を残したくなるのでしょう。色々なことを試みます。しかしほとんどが残念ながら効果のない空振り状態になっています。誰もがその行いを笑えません。爪痕を残す行為は人間が本来もっている本能的なものだと思います。

そこで,自分なりに爪痕について考えてみました。そしてこの爪痕は,人生の終幕にもつながるとこだと思っています。

本来「爪痕を残す」とは,悪い意味で使われます。災害で多大な被害があったとき,例えば「台風の爪痕が残っています。」とニュースなどで言われています。しかし転じて,何か功績を為し自分の存在を残すことを言うようになっているようです。

 

あと数年で退職という時になって,多くの人が急に後輩たちに何かを伝えようとします。

何かを伝えようとすること自体は,悪いことではないと思います。しかし,肝に銘じておかなければならないのは,あくまで誰か(後輩たち)のためでなく,自分のために行うことであること。人間は,結局自分が一番認められたいのです。そうでないと,人類はここまで続かなかったかもしれません。しかし,それぞれ自分が一番大事なのですから,うまくいきません。

何かを伝えようとしてもいいけど,必要以上に精神論をぶって自分に酔わないことが大事かと思います。

「老兵は死なず、ただ消え去るのみ!」ダグラス・マッカーサー

アクティブr-ニング

2020年から順次始まる新学習指導要領の概要を示した中央教育審議会の「審議まとめ案」が公表されたようです。

それに伴って,「アクティブラーニング」という言葉が現場では,盛んにつかわれ始めています。

「アクティブラーニング」とは,いったい何でしょうか?

アクティブという言葉はよく使います。お休みの日にじっとしることができなくてあちらこちらとお出かけしていると「アクティブだね~」などと言われることがあります。

AL(アクティブラーニングの略)は,指導・学習方法のひとつです。

例として挙げられているのが,グループディスカッション,ディベート,グループワークなどです。それだけではないようですが・・・。

とても理想的な方法だと思います。しかし,一方で子どもの基礎的な力をつける時間が確保できるのか少し心配しています。ディスカッションなどは,もちろんディベートもですが,知識や語彙が豊富で,しかも人に自分の意見を堂々と述べることが出来る人が有利です。ゆえに心理的に安定していることも条件の一つでしょう。そういったことを踏まえてはじめて成立するのだと思います。

私の解釈が正しいとは限りませんが,話し合い活動で,友だちの意見を聞いて「なるほど、そういう意見もあるのだな。」と思うこともあれば「いやいや、それは私の意見と違う。」ということもあります。時には的外れなことを思ったりもします。いずれにしても自分の意見を友だちの前で言うのは勇気がいります。反対意見を言ったら仲間はずれにされないかなとかあの人に賛成意見を言ったら仲の悪い人がどう思うかなと考えるでしょう。子どもの世界だって,大人と同じなのです。

ALの意義も主旨も理解できるのですが,そのことがクローズアップされ過ぎて漢字・計算の練習をはじめ基礎的な学習の時間の確保ができないのであれば本末転倒,低学力に拍車がかかります。

そしてALなどと今更言われなくても,教師はずっとその方法を使っています。前にブログにかかせていただいた「引き出し」のひとつです。

文字も定着し,語彙を豊富に使うことができるようになり,自分の意見をもつようになって,その意見を言うことができる雰囲気ができたら,先生の判断でこの子たちに「ディスカッション」をさせてみようというような現場の決定権があくまで優先されるべきだと思います。特に私は小学校に勤めているからそう思うのかもしれません。

目の前の子どもたちの事を考えて,時にはALも使いながら現場の教師は日々教育して欲しいと思います。

苦労は平等

どの仕事をしても色々な苦労があるでしょう。時には大失敗をして土下座ぐらいはしないといけないこともあると思います。

しかし苦労は,トータルで平等ではないだろうかと思っています。中には羨ましいと思えるような順風満帆に見える人も実は心の闇をかかえているかもしれません。「若いときの苦労は買ってでもしろ」とよく言いますが,そうとも言い切れないというのが持論です。

若いときに苦労する人もいるし,年齢を重ねてから苦労する場合もあります。確かにある程度年をとってからの苦労はきついのかもしれません。でも仕方ないのです。その時その時を一生懸命生きていたら,苦労は勝手にするものなのです。苦労はしようとしてするものではありません。そして人によって違います。いつするか,どういう形でするか,いずれにしても苦労はします。そして苦労が一度に押し寄せてきたらつぶれてしまう場合もあります。そうならないように事前に備えておきたいですが,備えてもだめな時はだめです。

教師という仕事も他の仕事と同様に,ぎりぎりの線を探る匠な仕事だと思っています。押しが強すぎてもだめだし,弱すぎてもだめです。去年と同じやり方でもだめだし,人の真似でもだめです。自分なりの方法で子どもを見ながら,探って試して進んでいく。そしてやはりだめな時はだめなのです。最後まであきらめたくない気持ちはありますが,あきらめることも大事です。その時は人に助けてもらいながら進んでいく。そしてまた次は誰かを助ける、そうやって教師を続けていくことが大事だと思います。そうすれば,自分一人でやっているなどと傲慢なことは思えません。みんなで力を合わせてやっているのです。それが分からない人は一番教師の資格がないと思っています。

中には天才肌で,イチロー選手のように生まれながらにしてその道のオーソリティといったセンスを持った人もいるでしょうが,そういう人こそ努力を怠っていません。そしてそんな人はめったにいません。凡人の人間が自分なりに努力をして毎日を送っていき,苦労に苦労を重ねて本物の教師に近づいていくのです。